徒然なる挽歌

ゲイが苦手なゲイの記憶と記録

穏やかに始まった新年度

4月に入り、新年度が始まった。フリーランスの俺にとっては、年度の節目で何かが変わることはないが、一応はひとつの区切りがつくような気はする。

最近はやたら暑い日が続いていて、俺の部屋は内窓や吸音材で断熱性が高いこともあり、PCの熱で部屋は25℃くらいになる。昔から暑さに弱くて頭が働かなくなるから、23℃を超えるくらいから冷房は必須。

今日はいつもどおりゆったりした日で、午前中から夕方まで仕事を片付けていた。案件があるときは、1日働けば3~4万円くらいになるから、フリーランスって本当に楽だよ。いつ休もうが仕事の合間にフォートナイトやろうが自由だしw

 

フォートナイトといえば、2~3日ほどやってなかったから、今日は建築練習やって軽い気分で通常ソロを回してた。そのあとは1v1のボックスファイトで練習した。C4S2は競技性もクソもない最悪な環境だけど、クリエで楽しめるのがフォトナのいいところなんだよな。

あと、今日から固定スキンを変えた。クルー特典で「アレス」のスキンが貰えるから、半年ぶりくらいにクルーに課金した。元々ギリシャ神話が好きだし、デザインがカッコ良すぎるから一目惚れだったよw

ちなみに俺はずっと男スキンばかり使ってる。大人の男が女スキン使うのって正直気持ち悪いし、男としてのプライドがないのかなって思うんだよな。運営がアレスみたいなカッコいいスキン増やせば、男スキン使う奴も増えるだろうけど。

 

今月は28日に田辺文雄さんのライブという大イベントがあって、東京旅行の準備もある。大量に来た案件も旅行までに捌かないといけないから、とにかく忙しいんだよな。

だから深いテーマについては書けないと思うけど、今回みたいな日常系の記事はできるだけ毎日書くようにするよ。せっかくブログ始めたし、俺は他人より文章が圧倒的に上手いんだから、どんどん書かないと損だよな。

【近況報告】久しぶりの記事投稿【日常】

久しぶり、Kenです!

最後にブログを投稿したのが2月5日なので、もう2か月近くも放置してたことになるな…。

この間にいろんなことがあって、ブログよりそっちに集中してたから、ブログ更新には気が回らなかった。決して忘れてたわけじゃないんだけどね。

  • 本業のライター案件の対応
  • 東京旅行の準備
  • 楽器類の売却
  • 筋トレの再開
  • フォートナイトの再開
  • HuluでアニメやBLドラマ漁り

だいたいこんな感じだった。まず、俺は本業でフリーランスのライターやってるんだけど、去年の下旬から案件が減ってかなり暇だったんだよね。フリーランスは自由に生きられるのが最高だけど、やっぱ仕事は不安定だから。

でも、俺は優秀なライターだからクライアントが放っておくわけはなくて、今年に入ってまた取引先からの発注が増えてきた。長期の継続案件もいくつかあるから、経済面での心配はまったくない。

4月末の東京旅行の準備もしてた。詳細は別の記事で書くつもりだけど、『チョロQ』ってゲームの音楽を制作されていた、田辺文雄さんのライブに行くついでに東京旅行に行くことにしたんだよ。東京はもう5年ぶりだから、久しぶりに遊びに行きたくって。

 

あとはミニマリスト化のための断捨離を兼ねた、楽器類の売却。ここ3年くらいめっちゃ楽器演奏にハマっててさ、ほとんど弾かない楽器が部屋でゴロゴロしてたから、買取屋やメルカリで売り払った。

楽器ってそれなりの資産になるからさ、メルカリだと量産品でも元値の半分~3分の2くらいで売れるんだよね。差額は「楽しさ」や「学び」のための出費ってことで割り切って、楽器に使いすぎたお金を取り戻せたから大満足。

Yamahaクラシックギターだけ残してたんだけど、これもさっきメルカリで売れたから、俺の部屋にはもう楽器はひとつもない。次に楽器買うなら、一生モノの手工品にするって決めた。

筋トレとフォートナイトの再開については、めっちゃ長くなるから別記事で書くか。フォートナイトは何だかんだで建築が面白いから、環境がクソでもついやりたくなるんだよねw

 

2月末にHuluに加入して、アニメやBLドラマ漁りも始めた。HuluはBLドラマが多いって噂を聞いてさ、高校生のときにBLマンガめっちゃ読んでたから懐かしくなって、気付いたらポチってたんだよ。

直近で見たのは『美しい彼』『東京マグニチュード8.0』『東京リベンジャーズ』とか。BLじゃないけど『ノウイング』って映画も観たから、これも別記事で書くわ。美しい彼の八木勇征には久しぶりにハマったな。

この2か月間の俺は、まあこんな感じで過ごしてました。書きたい記事がめっちゃ溜まってるから、もう放置しないようにしないと。これからぼちぼち書いていくので、お楽しみに!

【辛辣】ゲイアプリについて思うこと【本音】

田舎暮らしでリアルでの出逢いの機会がないこともあり、俺はしばらくのあいだゲイアプリを利用している。しかし、ゲイアプリにまともなユーザーは皆無だ。

ゲイアプリを使っていると、ユーザーの大半がボットや猿のように思えてならない。まず人間的な相互のコミュニケーションが取れない。明らかに人として大切な何かが欠けている。

かつて石原慎太郎が同性愛者について、「どこかやっぱり足りない感じがする」と言ったが、少なくとも日本のゲイ(男性同性愛者)について、俺はこの発言をまったく否定しない。

 

また、ゲイアプリの品質そのものも劣悪である。ゲイという種族の「刹那的な快感」を求める浅ましさゆえに、ゲイアプリの大半はセックスのために存在する。

これは日本国内のみならず海外のゲイアプリでも同様。ゲイ特有の見た目ばかりの薄っぺらい価値観をアプリが増長し、ユーザー個人の「内面」を知る機会など与えられない。

その点では、かつて存在した「メンミク(Men's Mixi)」は素晴らしかった。メンミクには日記を執筆・公開できる機能やコミュニティなどがあり、ユーザー同士のコミュニケーションが盛んだった。

しかし、そんなメンミクはある日突然サービスを終了。それ以降は劣悪なアプリの時代となる。結局のところゲイはセックスの奴隷なのだから、刹那的な出会いの需要が高いということなのだろう。

 

ゲイアプリのユーザーはとにかく意味不明・理解不能な言動が多く、コミュニケーション能力が低い。まずプロフィールの文章を読まず、仮に読んだとしても内容を理解できない。

いざメッセージを始めても、短文の連続で会話を広げようとせず、自分が知らない・興味のない話題になるとすぐに逃げる。そのくせプロフィールには「真剣な出会いを探してる」などと書いている。

ゲイに限らず日本人は基本的にコミュニケーション能力が壊滅的で、相手と対話して理解を深めようという努力をしない。なぜなら「他人に察してもらう」ことが当たり前で、甘え切っているからだ。

だから俺は、外国人を相手にするほうが気楽でスムーズな会話ができるし、実際に俺の昔の恋人は外国人ばかり。日本のゲイ界隈はコミュニケーション能力も知性も劣っている人が多すぎる。

 

外国人のゲイ友達に聞くと、ほとんどは口を揃えて「日本人のゲイは変な人が多い」と答える。意思や感情を言葉で表現しないから、お互いを理解し合えないのがつらいのだ。

さらに日本のゲイは平気で嘘をついたり浮気したりするし、人目を気にしすぎるから一緒にいると精神的に疲れてしまうという声も多い。俺にはこうした外国人ゲイの苦悩が痛いほど分かる。

俺はもともと「低レベルな人間と付き合うくらいなら独りのほうがマシ」だと考えているから、どうしても恋人やパートナーが欲しいというわけではない。

しかしながら、改めて日本のゲイ界隈を見てみると、とても同じゲイだとは思えないほど低レベルな人が多すぎるので恐ろしくなる。やはり俺は「独り」を貫くべきなのだろう。 

【ゲイが苦手なゲイ】アナルセックスが大嫌いな理由【マイノリティの中のマイノリティ】

ゲイ/男性同性愛者の性行為といえば、まずアナルセックスをイメージする人が多いのではないだろうか。そうしてヘテロ異性愛者)が「気持ち悪い」と思うのも無理はない。

俺は自身のセクシュアリティ性的指向)を一応ゲイだと認識しているが、アナルセックスは大嫌いだし、【ゲイ=アナルセックス】という風潮も非常に不愉快である。

今回はなぜ俺がこれほどアナルセックスを嫌うのか、詳しく説明していきたいと思う。この記事が「マイノリティの中のマイノリティ」の助けになれば幸いだ。

 

そもそも「アナルセックス」とは肛門性交、つまりペニス(男性器)をアヌス(肛門)に挿入して行う性行為のことである。

アナルセックスには「ゲイが行うもの」というイメージがあり、実際の多くのゲイはアナルセックスを行っている。一方で異性愛者が異性とアナルセックスを行うこともある。

さて、肛門とはどのような場所だろうか。簡単に言うと、排泄物を出すための場所だ。つまりセックスをするためのものではなく、大便が通る場所だということ。ここに俺がアナルセックスを嫌う理由が集約されている。

 

  • 不潔で不愉快
  • 受け側が痛い
  • 感染症の温床
  • 手間がかかる

 

アナルセックスはとにかく不潔で汚い。なんといっても大便の通り道なのだから。まともな神経の持ち主ならば、たとえ相手のことがどれほど好きであっても、そんな場所に自分の指や性器を突っ込みたいと思うだろうか。

アナルを舐める連中もいるが、俺にはとても想像もできない恐ろしい世界である。もともと俺は潔癖症気味で、オーラルセックス(フェラチオ)でさえも、相手の性器が綺麗な状態でなければできない。

だからアナルセックスに対する俺の不快感はよりいっそう強いのだろうが、潔癖症でなくてもやはり肛門は汚物にまみれた場所だ。実際に衛生面の理由からアナルセックスを嫌うゲイは一定数いるようだ。

 

受け側にとっても、アナルセックスはたいていの場合は苦痛以外の何ものでもない。女性器やいわゆる「やおい穴」とは異なり、肛門は性的快感を感じられる構造になっていない。

前立腺オーガズム(ドライオーガズム)などという概念も存在するが、そんなものは一部の変態性欲者にしか縁のない話だ。とにかくアナルセックスは大半の場合、受け側に痛みしか与えない。

だから自身のポジションを「ウケ(ネコ)」と表明しているにも関わらず、実際にはアナルセックスが苦手・嫌いだというゲイは決して少なくない。

 

さらにひどいことに、アナルセックスは各種感染症、特にHIVB型肝炎・梅毒などの恐ろしい性感染症(STD)のリスクを飛躍的に高める。

もっとも、性感染症のリスクはコンドームで防げるが、近年では「PrEPを使えば生でも大丈夫」だと誤解する愚か者が増えている。

世間では未だに【ゲイ=性病持ち】のような偏見が残っているが、少なくとも日本においては、性に奔放で無教養なゲイが多いのだから、そのように思われても仕方ないと言わざるを得ない。

 

ちなみに前述した衛生面や痛みの問題は、事前に入念な洗浄や前戯(フォアプレイ)を行えば軽減できる。しかし、そのために必要な時間や労力は信じられないほど膨大である。

俺がゲイアプリで会ったアメリカ人は、セックスをする前に自分の肛門や直腸を1時間もかけて洗浄していると言った。浣腸を頻繁にすると、肛門や直腸を傷つける恐れがある。

また、アナルセックスの痛みを軽減するための前戯は、指を少しずつ入れてほぐしながら行う必要がある。しかも、女性器と違って前戯で快感が増すわけでもなく、受け側は結局ある程度の痛みに耐えなければならない。

たかだかセックスのために、これほどの時間と手間をかける必要があるのだろうか。少しでも知性のある人ならば、その労力をほかのことに費やすべきだと分かるだろう。

 

しかし、それでも多くのゲイがアナルセックスを行っている。それはなぜだろうか。まず考えられるのが、本当に気持ちよくて楽しいというケース。この場合は「お幸せに」と言うよりほかない。

実際に多いのは、同調圧力やプレッシャーによるものだろう。現にゲイの中には、「ゲイであればアナルセックスをすべき」と信じ込んでいる人が少なくない。あたかも宗教に洗脳されているかのように。

攻め側も受け側も、アナルセックスがあまり好きではないのに、「やらなければならない」からやる。ウケが嫌だから無理にタチを演じるという人も少なくない。

アナルセックスはゲイの義務なのだから、これを放棄すれば相手にされず恋人もできない。特に受け側には、アナルセックスを断ればその瞬間に関係が終わるという恐れがある。

こうした同調圧力やプレッシャーが、「頑張ってアナルセックスをしなければ」と彼らを追い込むのだろう。苦痛を我慢しなければならない愛など、果たして本物の愛といえるのだろうか。

 

ゲイだからといってアナルセックスをする必要などない。この当たり前の事実を理解できているゲイは、「バニラセックス」つまり肛門を使わないオーラルセックスなどを行っている。

しかしバニラセックス派のゲイは少数派であり、「マイノリティの中のマイノリティ」である。ゲイアプリでも強制的に「タチ(攻め)」か「ネコ(受け)」を選ばされるものが多い。

このように、ゲイは日頃から「多様性」を訴えていながら、実際にはゲイの世界に多様性などない。型にはまった考えや習慣に洗脳されて、クリエイティブな視点が欠けている。だから俺はゲイが苦手なのだ。 

ゲイとしての「初体験」の話

前回までのブログで「俺がいつ性的指向を自認したか」について、小学校から高校までの体験を交えて話した。

 

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今回はその流れのまま俺の「初体験」について語っていきたいと思う。ただし、下記の記事で説明しているように俺はアナルセックスが嫌いなので、本記事の内容は通常の初体験談とは異なる。

 

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高校2年のときに鬱病を患った俺は、それからほとんど学校に通うことはなかった。本来であれば卒業も危ぶまれていたが、教師の計らいで及第点を得て卒業することができた。

大学受験や大学進学が無意味なものだと悟っていた俺は、浪人などするつもりはなかった。働きたくもない一方で、とにかく都会に出たかった俺は、母の薦めで東京のIT系専門学校に通うことにした。

ちなみに、俺はすでに母にゲイであることをカミングアウトしていた。当時の俺と母の仲はまだ険悪なものだったが、それでも母は俺を応援してくれると言った。(一連の経緯についても別記事で語る。)

 

紆余曲折はあったが、俺は新宿で一人暮らしを始めた。実家では母のヒステリー発作のせいで安らぐ場所や時間などなかったが、俺は人生でようやく安らげる場所を手に入れたのである。

学校が始まるまで1週間ほどあったので、俺は原宿や渋谷などを遊び歩いていた。映画やドラマでしか観たことがない風景が俺の日常になったことを俺は誇りに感じた。

俺はすぐにゲイとしての活動、つまり新宿二丁目通いや恋人探しを始めた。昼間の二丁目は一見すると通常のビジネス街だが、日が沈むと途端に異様な雰囲気を放つゲイタウンとなる。

俺は何も考えず適当なバーに入って、すぐにカクテルを注文した。バーの姉ちゃんに「何歳?」と聞かれた俺はうっかり「18歳」と答えてしまい、彼女が苦笑いしながらカクテルを手渡してくれたのはいい笑い話だ。

その姉ちゃんはどうやらバイセクシュアルらしく、俺を少し気に入ったようだったが、勢いよく酒を飲み干した俺はすぐにその店を後にした。

高校生のときに飲酒経験があったため、これがアルコールの初体験というわけではないが、本格的なバーで飲むカクテルは格別だった。それから週に1回は二丁目に通うようになった。

 

さて、俺の初めての恋人は意外なことに二丁目ではなく、掲示板経由で出会った。当時はゲイアプリなどなかったから、「CoolBoys!」のような掲示板での出会いがメインだったのである。

そこで偶然ゲイのための飲み会なるものが主催されていたので、俺は参加を申し込んだ。土曜日の夜に歌舞伎町で集合とのことで、俺はそのときを待ち望んだ。

歌舞伎町で主催者を見つけた俺は参加費用を支払ったが、彼からは親切さがまったく感じられなかった。好みの男以外のゲイには礼儀を示さないような、無礼者のゲイは意外と少なくない。

当時の俺は金色の長髪でまるでホストのような容姿だったから、大半のゲイからは好まれなかった。

こうしたゲイコミュニティの「閉鎖的で多様性がない」ところは、俺が後年になってゲイコミュニティを嫌悪するようになった要因のひとつだ。

しかしながら、俺も見た目や振る舞いでほかのゲイを評価していたことに変わりはない。ただ一人を除いて、俺の興味を惹きつけるような男は居なかった。

 

彼は短髪で髭を生やしていて、少し素行が悪そうなヘテロセクシュアルの男という感じで、ほかのゲイの連中とは明らかに雰囲気が違っていた。

俺が彼のことを見詰めていると、その視線に気づいたのか彼が俺のほうを見て軽く微笑んだ。人付き合いが苦手な俺は、軽く会釈することしかできなかった。

飲み会が始まってから、俺たちはすぐに話し始めた。彼の名前はダイスケ。一人称が「俺」でゲイっぽさを微塵も感じさせない話し方だったことが、彼への印象をさらに高めた。

俺たちはほかの参加者など存在していないかのように、お互いのことだけを見て話した。彼は35歳でパチンコ店で働いており、自身の仕事を恥じているようだった。

今の俺であれば彼が恋愛対象になることはないが、若さゆえの世間知らずな感性や中学時代の「S」の影を追っていたのか、俺はとにかく彼に強く惹かれていたのである。

俺たちは夜が明けるまで酒を飲んだが、俺が疲労困憊していたり彼が仕事に行かなければならなかったりで、そのときは1週間後に会う約束をしてお開きとなった。

 

専門学校の入学式は明治神宮で行われて、それからすぐに俺の新たな学生生活が始まった。俺は人付き合いが苦手だが、すぐに4~5人の友人ができた。

授業の内容はすぐに理解できたので、俺は教科書や課題を先取りして進めるようになった。学校が予想外に楽だったこともあり、俺の意識はゲイ活動のほうにより強く向いた。

ダイスケとは約束の日にまた会った。そのときは歌舞伎町のカラオケに行き、オレンジレンジなどの曲を適当に歌った。俺はカラオケなど行ったことがなかったが、好きな人と一緒に歌うのは楽しいものだ。

やがて雰囲気が盛り上がってきて、ダイスケが俺にキスしてきた。これが男との初めてのキスだった。さらにお互いに服を脱がせ合って触れ合ったが、その途中で店員がドアを激しくノックしてきた。

気分が萎えた俺たちはそのまま解散し、また後日会う約束をしたのだが、俺の孤独はよりいっそう深まった。俺には新しい出逢いが必要だった。

 

孤独を紛らわすために俺は再び「CoolBoys!」の掲示板を見て、良さそうな男を漁っていた。するとオーストラリア人の投稿が目に飛び込んだ。

どうやら彼は短期旅行で日本に来ており、「一時的な相手」を探しているらしかった。しかも以前は日本に住んでおり、日本語も流暢なようだ。

俺はすぐに彼にメールを送って会う約束をした。ホームステイをしている彼の場所に行くわけにはいかないため、俺のアパートで会うことにした。最寄り駅は新大久保駅だから、そこまで迎えに行くと伝えた。

しかし時間になっても彼が来ないので確認したところ、彼は間違えて大久保駅で降りてしまったらしい。仕方がないので俺は大久保駅まで迎えに行って、アパートまで連れて行った。

彼の名前はクリスで、写真で見るよりはるかに美形で筋肉質な男だった。ALTや交換留学生を除き、白人の姿をこれほど間近に見るのは初めての経験だった。

 

アパートに入ると、若い俺たちはすぐに「そういう雰囲気」になり、俺は初体験を済ませた。形容しがたい熱く幻想的なひとときだった。

そのあとすぐにクリスとは別れたが、それからしばらくの間は彼とメールで連絡を取り合っていた。この経験がおそらく俺の「外専」の素質を開花させたのだろう、その後の遊び相手や恋人の大半は外国人となる。

ちなみにダイスケとはその後も何度か会っていたが、クリスのような外国人と比べると一緒にいても退屈だった。次第に連絡も取らなくなり、俺たちの関係は自然消滅となった。

ゲイ関連の体験について書くことは山ほどあるので、これからも定期的に記事を書いていきたいと思う。 

俺はいつ自分が「ゲイ」だと気づいたのか(後編)

前回の記事では、中学生のときの経験について書きました。今回は俺が高校時代にSNSなどを通じて、最終的に同性愛者であることを意識するまでの流れについて語ります。

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高校生になった俺はますます陰気さを増し、クラスでは孤立することが増えた。元サッカー部のイケメンTも同じ高校に進学したが、彼は同じクラスではなかった。

俺はいわゆる「特別進学クラス」に振り分けられ、クラスメイトは成績優秀な生徒が大半。しかし、同級生とはまったく話が合わず、私は退屈していた。

まず話が合わない。周囲はテレビ番組やゲーム、女子などの話題に熱中していたが、俺が興味を抱いていたのは哲学や文学、物理学だったのだ。

 

携帯電話を買い与えられた俺は、休み時間はネットを見て過ごすことが増えた。どういう経緯かは忘れたが、俺はGREE(グリー)というSNSを始めた。

プロフィールを作るだけではなく、コミュニティに参加できることや自由に日記を書けるところが気に入ったのである。

学校では「友人」と呼べるような者はいない俺だったが、GREEでの友だちはすぐに増えていった。俺は毎日のように日記を書きなぐった。

やがてあるコミュニティが俺の関心を惹いた。それが「Emo Boys」である。Emo Boysとは、「エモ(Emotional Hardcore)」というジャンルの音楽を聴く美少年のことだ。

今では「エモい」という言葉が当たり前のように使われているが、その由来のひとつがエモ系の音楽だ。エモについては別記事で詳しく話そうと思う。

 

さて、Emo Boysコミュニティの運営者のプロフィールを見ると、「バイセクシュアル」と書いていた。しかし俺にはその意味がよく解らなかった。

調べてみると、バイセクシュアルとは「男性と女性の両方に魅力を感じること」らしい。その流れで俺はホモセクシュアルつまり同性愛という概念も知った。

自分がなぜ男友達と同じように女から肉感的なものが得られなかったのか、そのとき俺はあたかもバラバラのピースがひとつになったかのように理解できたのだ。

しかしながら潔癖症気味の俺は、「アナルセックス」という風習を嫌悪した。つまり、すでに俺はマイノリティのなかでもマイノリティだったのである。

 

それから俺の世界は驚くほど広がった。Emo Boysについて調べると、海外のEmo Boysの多くが「Myspace」というSNSを使用していることが分かった。

Myspaceは基本的にアーティスト同士が交流するためのものだが、現在のFacebookのように一般ユーザーも多く登録し、コンテンツの共有などを楽しんでいた。

何事も行動が早い俺は、すぐに自分のMyspaceページを作成してEmo Boysっぽい顔写真も載せた。もちろんプロフィール文章は英語で詳細に書いた。

現在の俺は英語で情報を収集することが多い。俺が英語に対してまったく抵抗を感じなくなったのは、このころの経験が大きいように思う。

 

ちなみに、Emoの定義は時代によって異なる。詳細は別記事で語ることになると思うが、俺がEmoという場合はほとんど2000年代の「Millennium Emo」を指す。

MyspaceのEmo Boys界隈には、北米はもちろん欧州からもたくさんの美少年たちが集まっていた。彼らは好きなEmo Songを仲間と共有するために、プロフィールにYouTube動画を埋め込んでいた。

俺が15歳のときに黎明期のYouTubeを知ることができたのも、こうしたEmo文化のおかげだ。だからこそ俺は、今どきのYouTubeを心の底からつまらないと思えるのだ。

さて、あるEmo Boyのプロフィールを見たとき、俺は世界がひっくり返るほどの衝撃を受けた。Silversteinの『My Heroine』を聴き、Screamo(スクリーモ)というジャンルを知ったのである。

 

www.youtube.com

 

俺は同級生とは決定的に異なる日常を送るようになった。EmoやScreamoを聴きながらGREEで日記を書きなぐり、海外のEmo Boysに耽溺する日々であった。

実はこのころ俺は鬱病を患っており、高校2年の夏ごろから学校にはほとんど通わなくなっていた。その理由のひとつが性的指向であるが、ほかの要因のほうが大きかった。

いずれにせよ俺が人生で最も暗いときを乗り越えることができたのは、SilversteinをはじめとするEmo/Screamo系バンドとEmo Boysコミュニティだといっても過言ではない。

だからこそ、メタルヘッドメタラー)になった今でも、このとき熱中していた音楽を改めて聴くと、まるで故郷を懐かしむかのようなノスタルジアを感じるのである。

 

高校1年の終わりごろだと思うが、イケメンサッカー少年のTが突然退学した。友人から聞いた話によると、「自分探しの旅」をするためだったらしい。

彼の中学時代の行動から考えてみると、彼もまた自らの性的指向に悩んでいた可能性はゼロではないだろう。俺はこのとき【誠実で聡明な者ほど苦労する】という世の中の摂理を悟った。

Tが去った高校に俺の理想を満たせる男は居なかった。だから俺が高校生のときに誰かと恋愛をすることはなかった。

しかし、少なくとも高校1年生のときには自分がゲイであることや、他人と同じような人生を送ることは決してできないことを確信した。

 

……このように、俺は幼いころから通常とは異なるところがあり、年齢を重ねるたびにその違いが大きくなっていきました。そうして15歳のときに自分の性的指向を自認したのです。

高校を卒業した俺は東京の専門学校に進学し、ゲイとしての人生を歩みだすことになります。しかし、そこで俺は「マイノリティのマイノリティ」であることを痛感し、やがてゲイの世界からも離れることに。

これらの出来事や思い出については、今後少しずつ語っていきます。今回は3回にわたるシリーズをお読みいただき、誠にありがとうございました。 

俺はいつ自分が「ゲイ」だと気づいたのか(中編)

前回の記事では、幼稚園児から小学生のときの経験について書きました。今回のメインは中学時代。このころになると、同性愛者としての傾向が強く出始めます。

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ファイナルファンタジーX』の甘く切ない物語に涙したあと、新たな日々が始まった。中学生になったのだ。

急激に視力が悪化した俺は、早い段階で眼鏡をかけることになった。成績が良くスポーツが苦手で痩せていたことから、俺は「ガリ勉」と呼ばれるようになる。

しかし俺は勉強もほとんどしていなかった。1日1時間も机に向かって予習・復習をすれば、中学3年間は常に上位の成績だったのだから。

 

さて、中学でも俺と仲良くしてくれる女子はいたが、特に誰かと付き合うことはなかった。何度か告白されたこともあるが、すべて断った。

友人は「もったいない」と言ったが、俺には余計な労力のほうがもったいなかったのである。それより俺には気になる人がいた。

どんな学校にもクラスに1人や2人くらいは、素行の悪い者がいるだろう。俺はそんな不良少年Sに想いを寄せていた。

 

Sは長身で肌が白く、目が細くて鋭かった。いかにも不良らしい乾いた声で、ほかの生徒とは明らかに異なる、香水と煙草の混じった匂いが印象的だった。

俺が11歳のときに死んだ親父がヘビースモーカーだったこともあり、俺には煙草の香りがよく分かった。

Sにはいろいろ悪い噂があって乱暴なことで有名だったが、なぜか俺には優しかった。本来であれば、成績優秀な俺と不良の彼が関わることなどないはずだが、俺たちはたまに言葉を交わした。

学校の敷地の隅には、不良少年たちが集まって煙草を吸う場所があった。動物園のような騒がしい教室から逃れるために、いつしか昼食後に「喫煙場」の近くで時間を潰すことが日課になっていた。

Sの乾いた声や彼の仲間の騒ぎ声が聞こえてくる。そこは俺の憩いの場となった。地べたに座ってヘッセを読みながら、ほんのりとした煙草の香りを味わうのは至高のひとときだったのである。

 

俺の性質は幼いころから決して善良なものではなかった。ただ大人しい性格で成績も良かったために、勝手にそのようなイメージがついただけのことだ。

しかし俺はそれに逆らうことはせず、大人たちの期待を満たすために真面目な生徒を演じていた。

思えば俺のSに対する感情には、自分には決して成しえないであろう反逆への憧憬のようなものも含まれていたのだろう。

だとすれば後年になって顕在化した俺のホモセクシュアリティは、社会に対する反逆の一環であるかのように見えるのは、何という皮肉だろうか。

 

さて、俺にはあと3人ほど気になる男たちがいた。彼らはみんな俺より背が高いスポーツマンで、その男らしいところが俺を魅了したのだろう。

特に俺が心を奪われていたのは、目鼻立ちが整ったイケメンで成績も良く、スポーツ万能なサッカー部員Tだ。彼より魅力的な男を後にも先にも俺は知らない。

明らかに「ジャンル」が異なる俺たちだが、不思議と疎遠ではなく、一緒に下校したり試験の点数を見せ合ったりすることが多かった。

今思い出しても不思議なことなのだが、Tはよく俺のことを「かわいい」と言っていた。ときには俺の耳元で何やら囁いてくることもあった。

Tは明らかに「モテる」男だったが、彼の女の噂は中学3年間で一度も聞いたことがなかったように思う。後編でも改めて触れるが、もしかすると彼が俺と「同類」だった可能性もあり得ないことではないだろう……。

 

もし当時の俺が「同性愛」という概念を理解していれば、その後の俺の人生は大きく変わっていたかもしれない。

確かに俺は頭の良い少年だったのかもしれないが、人生における実用的な知識がほかより明らかに欠けていたがゆえに、思春期の大切な機会を逃していたように思う。

後年になって俺がBL小説のようなものを書くようになったのも、あのころの愚かさが開けた心の穴を埋めるためなのかもしれない。

 

……俺の中学生活はそんなふうに過ぎていった。前述したように女子から告白されても付き合うことはなく、そうかといって男子に想いを告げるようなこともなかった。

中学3年にもなると、ほとんどの少年は色気づいて愛や恋に想いを馳せるようになる。俺の身体も大人に近づいていたが、俺はまだ彼らに対する感情にそうした名称を与えていなかった。

おそらく生まれながらにして、俺は他者との関係性を推し量る能力を欠いている。だからこそ当時の俺には、友情と愛情の違いが分からなかったのだろう。

 

高校受験のシーズンが近づいていた。今でもこの傾向は変わっていないようだが、田舎では私立より公立のほうが学校のレベルが高い。

俺は母や担任教師の勧めで、自宅から最も近い公立進学校を受験することになった。特に努力することなく、俺は前期試験で志望校に合格した。

卒業式の日に不思議なことがあった。友人たちと簡単な挨拶を交わしたあと、俺は母とレストランに行った。これは以前からの約束だった。

それから家に帰ると、電話に着信履歴が入っていることに気付いた。俺も母も知らない番号だったが、母には心当たりがあるらしかった。

どうやら母によると、卒業式の日に一度だけ電話をかけて、相手が出なかったら諦めるという不思議な風習があったらしい。

母はニヤニヤしながら「掛けなおしてみたら?」と言ったが、俺はそのまま捨て置いた。仮にその電話番号がSやTのものだったら、俺は間違いなく掛けなおしただろう。

 

俺の中学生活はこんな感じで過ぎ去りました。明らかに同性愛者的な傾向は出てきましたが、はっきりと「男性が好き」と自覚することはありませんでした。

本シリーズのラストとなる「後編」では、SNSを通じて自身の性的指向を自認する経緯についてお話しします。

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